私の部屋に飾ってみたい書の展覧会

 

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9月下旬、京都市の「みやこめっせ

美術工芸ギャラリーにて開催された

「私の部屋に飾ってみたい書の展覧会」。

 

私は今回で5回目の出展でしたが、

今年もたくさんの方々がお越し下さり、

盛況のうちに無事終了いたしました。

 

台風21号の影響で閉鎖されていた

関西国際空港が復旧し、3連休と重なって

いたこともあって、会期中の京都市内は

いつも以上の大変な人出。

 

特にみやこめっせ周辺は、平安神宮

美術館など、観光施設が集中していること

もあり道路は大渋滞。

 

来場された方も、駐車場がどこも満車の

ため車を停められず、しかたなく道路脇に

停車して、ご夫婦で一人が車の見張りを

しながら交代で来られたという方もいたほど。

 

さすがに観光シーズンの3連休。

京都はいつも以上に高密度でした。

 

ところで、私が今回出展したのは

「颯」という漢字を抽象的に墨で表現した

作品だったのですが、その作品について以下

のような作者コメント(説明文)を付しました。

  

 『あぁ、お前は何になりたいのだ。

  吹き来る風が借問する。

  やにわに駆け出す狐と山羊は、

  颯と煙と消え去りぬ。』

 

会場で読まれた方の中には「?」という

方もおられたようで、何人かの方から質問

を受けましたが、この文章は中原中也の詩

「帰郷」の中の一節がベースになっています。

      

『颯』という漢字には、一般的には

『颯爽』のようなさわやかなイメージが

あるかと思うのですが、それと同時に

『痩せ細る』『衰える』という不思議な

意味もあるようなのです。

   

つまり、総じて『物事が急に変化する』

という意味合いに繋がるのですね。

   

ここから一般的に「颯」という漢字から

受けるさわやかさとは少し違った印象を

私は感じたわけです。

   

そして、私の中でその印象に一番近かった

のが、中原中也の『帰郷』の中に出て

くる『風』のイメージでした。

   

颯爽としたのではない孤独感みたいなもの

を作品と文章とで表現したかったのですね。

(できたかどうかは分かりませんが…)

   

また、数年前に『浮』という作品を

出展した際のコメントはこうでした。

   

   『虫時雨に浮世の塵を払い、

       露地に立つ。

       漫ろ心も興。

       茫々たる墨色となり、浮かれ出づ。』

 

これも私なりの『浮』のストーリーを

文章で表現したもの。

   

文章としては取り留めのないものに

なっているかもしれませんが、

どの作品にもこうした自分なりの

『ストーリー』があるのですね。

   

作者に作品に対する想いやストーリー

があるように、それを観たり読んだり

した方も三者三様の感じ方をされる。

   

『?』となりながらも、皆さん何かしら

の印象を必ず感じ取られる。

   

このような場に出展すると、そういった

感想などを直に聞かせて下さる方が

いらっしゃり、それが非常に面白く、

創作の参考にもなります。

   

作者の意図とは全く違った印象を持たれる

方がいらっしゃいるのも面白いですね。

   

今回で5回目の出展ですが、毎回何かしらの

発見や学びがある貴重な場に今回も

参加することができてよかったです。

   

それにしても、時間が経つのが早く感じられ、

昨年の会からもう一年経ったのかと驚きます。

  

同じ季節に同じ会場ですから、窓から眺める

景色も当然ほとんど同じ。

   

中原中也の詩ではないですが、この一年

『ああ おまえはなにをして来たのだ』

とならないよう、少しずつでも日々成長

して行きたいものです。

 

 

 

 

「執念」と「夢中」

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ゴールデンウィークも終わり、今週からまた通常の日々が始まります。

 

お正月からのことを思うと、改めて時間が経つのは早いものだなと感じずにはいられませんね。

 

さて、先月京都にて私の書の先生の個展が開催されました。

 

墨の抽象表現である「心書」を中心に、大判の大作から、軸の小筆作品などの多彩な作品が展示され、遠方からもたくさんの方々がお見えになられました。

 

文字をモチーフとしながら、その文字がもともと内包している魂のような気を作者の感性と掛け合わし墨色として表出した、そんな作品たち。

 

それは観る者の感性を刺激すると同時に、書かれた意味を頭で理解するのではなく、そこに含まれた「念」のようなものを心で感じ取ることを求める。

 

そして、その感じ方が人によって様々であり、同じ作品を観ても全く違った心象を各々が持つ。

 

ここに抽象表現の意味と素晴らしさがあるのですよね。

 

今回は私にとっても、これまで作品集で目にしたことはあっても実物を目の前で観るのは初めてという作品も多く、実際の墨の濃淡から多種多様なイメージを感じ取れたことはとても有意義な時間となりました。

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時を同じくして大阪梅田の阪急百貨店では、美術家・篠田桃紅さんの出版記念写真展&新作発表展が開催されており、こちらにも足を運びました。

 

篠田桃紅さんの作品に直に接するのは、2013年に岐阜県関市の篠田桃紅美術空間を訪れた時以来。

 

当時は生誕100年ということで、様々な場所で記念の展覧会が開催されていましたが、それから5年が経ち、現在は105歳になられています。

 

このお歳になられても作品を創り続けられておられることにはただただ驚嘆するばかりですが、なによりも近年に制作された作品のどれからも緊張感と強い念のようなものが感じられたことに驚きました。

 

それはつまり、失礼な言い方かもしれませんが、あのお歳になられても心が動いており、感性が敏感であることの証拠だと思うのです。

 

そのことが表現を多彩にし、作者本人の心象が投影された作品に力を与えることに繋がっているのではないかと感じました。

 

良い音楽を聴く、映画、お芝居などの素晴らしい作品を観る、美味しいものを食べる、素晴らしい工芸品に直に触れる、ダンスなど身体を動かす、自然の中に身を置く、そういったことで心を動かし、感性を刺激する。

 

素晴らしい作品を創り続ける人というのは、そういうことを意識的に大切にしているのですよね。

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ちなみに、冒頭の写真は私の実家の隣の敷地の写真。

 

といってもこれは数年前の写真で、現在は花の面積が以前よりも小さくなり、ところどころに立っていた梅の木も、何本かは切り倒されたとのことですが、それでも今年も綺麗に花を咲かせているようです。

 

綺麗に咲き誇った芝桜を見て、通りがかりの人々も車を停めて楽しみ、写真におさめたりしているとのこと。

 

そして、毎年花のお世話をしているのは、この土地を所有しておられる同じ地域に住むとあるおばあさんなのですが、そのあばあさんはなんと御年102歳。

 

このお歳で一人で家から歩いて来られ、ひとしきり世話をしてからまた一人で歩いて帰って行かれるのです。

 

いつまで続けられるのかは分かりませんが、それでも毎年こうしてお世話をされているというのは、年齢を考えると驚きですよね。

 

以前父に「そうまでして世話をするというのは一体何だろうか」、「綺麗な花を見てもらいたいという思いだろうか」と聞いたことがあります。

 

父は「執念だ」と言いました。

 

本気とも冗談とも取れない回答でしたが、確かに何かの強い念のようなものをご本人がお持ちなのではないかということは想像できました。

 

私は直接お会いした記憶はないのですが、このお歳でもお元気で、はつらつとした方でいらっしゃるというこのおばあさん。

 

「執念」と「夢中」は紙一重

 

ものを生み出す人間というのは、その狭間で心を動かし、感性を研ぎ澄まし、いくつになってもそうあり続けている。

 

そこに年齢というものはあまり関係ないのかもしれませんね。

 

自分がそれくらいの年齢になった時のことなどまだ想像できませんが、自分もそうあれれば素敵だなと、ぼんやりと想像するのです。

 

今年も1年有り難うございました

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2017年も残るところ後わずか。
 
今年もたくさんの方々にお世話になり、大変有り難い1年でした。
 
仕事でも日常生活でも、やはり色々な方とのご縁があってこそ自分自身の
活動というものが成り立っているわけで、出来たこと、出来なかったこと
様々ではありますが、やはりそういったご縁に感謝せずにはいられません。
 
10年ほど前から個人的な趣味で、各地の大小様々な神社を参拝して来ていますが、今年も時間を見つけては遠方にも足を延ばしました。
 
そうした中で、平安時代前後にに「明神大社」として列せられた神社などにも参拝しますが、中には時代の変遷とともに規模が大幅に縮小したと思われる神社も見られます。
 
参拝に際して車を停める場所もない、入り組んだ住宅街の中に静かに佇む社。
 
ある場所では、山奥の誰も立ち入らないような雑木林の中へ、またある場所では獣道のような参道の小山を駆け足で登ってみると、誰も来ないような中腹の斜面に小さな小さな社がポツンと建っているだけという神社も。
 
本当にここがかつて霊験あらたかとされた神社なのだろうかと不思議な思いにかられることもしばしばあるのです。
 
しかし、こういったどんなに変わった場所の、どんなに小さな社であっても、かならず何かしらのお供え物がしてあります。
 
こうしたときに、どんなに偏狭な場所の、どんなに小さな神社にも人間の思いが通っているということに、いつも感動を覚えるのです。
 
そこにひとつのご縁を置いていくという行為の積み重ねが、現代にまで続いているということに感動するのですね。
 
これは人と人とでも同じで、その積み重ねがご縁として繋がっていくのですね。
 
今年も色々ありましたが、来年もまたたくさんのご縁をいただきながら、ゆっくりと歩みを進めて行きたいと思います。
 
今年も1年お世話になりありがとうございました。
 
皆様よいお年をお迎え下さい。

 

続けていく力

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先週末は奈良方面へ、ぶらりと1泊の旅行に出掛けて来ました。

 

奈良から和歌山、吉野・大峰、熊野一帯にかけての歴史的な建物や風情が好きで時々出掛けるのですが、何度訪れてもいいですね。

 

この辺りの温泉の素晴らしさも、何度でも行きたくなる理由でもあります。

 

そんな中、今回の宿泊は吉野郡川上村の山間にある、1軒の歴史あるお宿にお世話になりました。

 

国道169号線沿いにあるお宿ですが、すこし道から逸れた高い場所にあるため、何も知らなければそのまま通り過ぎてしまうかもしれません。

 

こちらは明治14年の創業以来130年以上の歴史があり、建物自体も大正前期に建てられた木造建築で、当時の大正ガラスなどが今でもそのまま使われていたりします。

 

そして大峰山・柏木登山口の目の前に立地し、かつては大峰山の修験者の人々で賑わった行者宿でもあるのです。

 

私が宿泊した当日も、翌日の早朝から大峰山に登頂する4名ほどグループの賑やかな声が他の部屋から聞こえていました。

 

「聞こえていた」というのも、大正造りの昔ながらの建物ですから、各部屋それぞれが廊下や縁側を通して一続きに繋がっているため、他の部屋の大きな声などはそのままに聞こえて来るのですね。

 

廊下と部屋を隔てるのは障子戸1枚だけですので、廊下を人が歩く足音などが障子の向こうから聞こえてくるという、まさに昔のお宿そのままの様子を体験することになります。

 

現代的なホテルや旅館に慣れてしまった感覚では、最初は奇妙に感じられるところもありましたが、いまとなっては逆に珍しい、昔のお宿の風情を感じられる貴重な機会となりました。

 

翌朝、チェックアウトの際に女将さんと色々お話しさせていただいたのですが、私の故郷と少しばかり繋がりがあり、知人もおられるとのこと。

 

何か不思議なご縁ですね。

 

私がお宿についてあれこれ質問したためか、ご厚意で今は使われていない本館の宿泊部屋や、大昔の電話室(交換手に繋いでもらう時代の電話器)などを見させていただき、宿場町として賑わっていた旺時の様子などを聞かせていただきました。

 

お宿の中心として取り仕切っていらしゃったご主人が亡くなられてからは、女将さんと数名のスタッフで運営されているようですが、やはり色々な面で苦労がおありだと思います。

 

「歴史ある建物や旅館をいつまでも残して下さい」と周りが言うのは簡単。

 けれども、実際にそれをするのは並大抵のことではありませんよね。

 

昨晩賑やかだったあの4名のグループが、翌朝、部屋で出掛ける準備をしながら、「いい宿だった」「また来たい」と言っているのが聞こえて来る。

 

このような声を、宿を続けていく力に換えられているのだと思います。

 

女将さんとの話は尽きませんでしたが、僕自身も「いつかまた泊まりに来よう」、そう思いつつ宿を後にしました。

 

 

柔らかな

 

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明日から本格的にゴールデンウィークに突入である。
 
 
海外に出掛ける友人などは件の近隣諸国の情勢がやはり気になるようで、
何か有事が発生した場合の対応などをあれこれと考えているようだが、
そこはやはり海外旅行前、不安よりもそのワクワク感の方が勝っている
のは表情を見ればすぐに分かる。
 
 
楽しいことが待っているというその期待感に満ちた笑顔。
 
 
何だか羨ましい気持ちになりつつも、そのワクワク感が自分にも移って
来くるようで、人のそういう表情を見るのは決して悪いものではない。
 
 
とは言え、今回、私には特段の予定はないのである。
 
 
おそらく普段ほったらかしたままの雑事などをあれこれと片付けながら、
本の1冊でも読めれば良いかという、いたって地味な数日となるだろう。
 
 
初夏の爽やかな気候の中、閑散とした朝の街を自転車で走るのも悪くない。
 
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先月末、京都の大将軍八神社にお祓いをしていただきに伺った。
 
 
13年ほど前に、とあるご縁で方災除けのお祓いをしていただいて以来、
今でも年に1回ほど、だいたい春ごろに伺うようにしている。
 
 
正直なところ厄とか、そういったものに疎い私としては、これは厄祓いと
いうよりも、自分の中の気持ちを締め直して、また新たに1年をしっかり
と過ごして行こうという、ある種の「気持ちのリスタートの為のきっかけ」
という感覚の方が正しいかも知れない。
 
 
本殿でお祓いを受けた後、いつも神社の境内にある「方徳殿」を拝観させて
いただいている。
 
 
ご存じの方もいらっしゃると思うが、こちらの「方徳殿」には、平安時代から
鎌倉時代に造られた御神像が80体所蔵されている。
 
 
これだけの数の御神像が1箇所に集まるということ自体非常に特殊であるが、
姿も表情も装束も、1体1体、様々である。
 
 
しんと静まり返った空間で、80体の御神像に四方を囲まれてそこに佇むと、
気分はまさに裁判を受ける被告のような心境だ。
 
 
その空間でひと時を過ごせば、否応なしに自分の心と対話せざるを得なくなる。
 
 
それはつまり、結果的に良かった悪かったということより、
「しっかりやったか」という自分自身への問いである。
 
 
答えが「Yes」の時もあれば、はたまた…。
 
 
たった年に1度のことだが、自分にとってはとても大切な時間となっている。
 
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神社に向かう際、約束の時間に遅れそうだったためタクシーを利用した。
 
 
ドライバーさん曰く、「最近の観光客の方は、こちらが薦めた観光地に全く
興味を示さない」という。
 
 
つまり、京都に来る前から自分が行きたい場所とその詳細、ルートなどを
インターネットで完璧に調べ上げており、それに外れるオーダーには目も
くれないというのだ。
 
 
仁和寺の桜はもう散りかけているけど、ここの桜は今が見頃ですよ」と
薦めても、「そこはいいので、次はここへ行って下さい」と、スマホの画面を
見せられる。
 
 
ここ数年、特にそういった傾向が顕著になり、最近はもうこちらから薦める
ことはほとんどしなくなったと仰っていた。
 
 
確かに自分がどこかへ旅行に行く時のことを考えても、最近はインターネット
などでかなり詳細に調べてから出掛けることが多くなったのも確かだ。
 
 
見知らぬ土地で何の情報もなく薦められた場所に行くことに抵抗を感じること、
これすらもインターネットの影響かも知れない。
 
 
そうした時、果たして不安が勝るか、ワクワクが勝るか、それとも無感情に
自らが調べ上げてきたルートをなぞるのか。
 
 
少なくとも、楽しいことが待っている「かもしれない」と思えるくらいの
柔らかな心でありたいと思う。

春のにほひ

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各地で桜が満開のようですね。

 
  

桜の見頃というのは一瞬だなといつも思うのですが、

その時に決まってスペインの「人間の塔」の絵が

頭に浮かびます。

 
 

桜が満開になるというのは、塔の頂上に人が立ち、

手を上げた瞬間に似ているなと。

 
 

「その時」までに徐々に高まっていき、

その瞬間を過ぎると後は崩れるのみ。

 
 

散る花弁の余韻を楽しみながらも、そこには

すでに祭りの後のような寂しさがあるという。

 
 

その瞬間しかないという一回性が

人の心を捉えるのかもしれませんね。

 
 

ここ数年はゆっくりお花見する機会もなかなか

ありませんでしたが、通勤途中にある桜並木を

見ながら、「手を上げた瞬間」を見られる喜びを

密かに感じたりしているのです。

 

 

 

気の所為

f:id:kenji-hazama:20170119210312j:plain先週末、実家への帰省のその足で、島根県出雲大社へ参拝して来た。

 

正直なところ、幼少のころからの記憶を辿ってみても、それまで出雲大社に行ったという記憶がまるでない。

 

実家から距離はそれほど離れていないし、我が郷里はどちらかと言えば出雲大社に崇敬の念を持たれている方が多い地域でもある。

 

母方の祖母などはこれまでに何度も参拝に訪れている。

 

お参りしようと思えばいつでも行けたはずなのだが、これまで行ったことがないというのは不思議と言えば不思議であった。

 

それでも、出雲大社からほど近い日御碕の灯台を見に行ったことだけは微かに覚えている。

 

稲佐の浜ウミネコの鳴き声と波音を聞いて、少し懐かしい気持ちがしたのはそのせいだろうかと一瞬思ったが、ただの気のせいかもしれない。

 

三が日から慌ただしく動いていたため、これが今年の初詣となったわけだが、積年の思いを込めると共に、感謝の念で静かにお参りさせていただいた。

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それにしても、大社造りというのは本当に威厳がある。

 

床が高い構造、そして切妻造の妻入のため正面から千木が天にそびえる姿が見られるというのも良い。

 

檜皮葺の屋根の曲線も美しく、なにより自然との一体感がある。

 

松江市神魂神社などはそのお社の佇まいが周りの自然と完璧に調和し、その場にいるだけで圧倒されてしまうほどの荘厳さを醸し出している。

  

人工のものと自然とが完全に調和することで、人口のものも「また」自然に還る。

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出雲大社参拝後、灯台の辺りまで行ってみようかと稲佐の浜から北へ県道29号線を日御碕に向って走る道中、素晴らしい光景に出会う。

 

雲間から幾本もの光が冬の日本海に降り注ぐ。

 

出雲大社への参拝直後にこのような神々しい光景に出会えるとは出来すぎと言えば出来すぎであるが、それはまさに感動的な美しさであった。

  

そうか、この光景を見せるために今日参拝させて下さったのか。

 

いや、ただの気のせいだろう。

 

しかしそれでも、今日のこの日に参拝できて良かったとしみじみ思うのである。

 

 

見上げれば

f:id:kenji-hazama:20161222004847j:plain気が付けば早や12月も下旬である。

 

年の瀬の多忙さは毎年のこととは言え、上旬の出来事をここに書こうと撮った写真と現在の空気感の差異に、改めて時間の過ぎ行く早さを思うと同時に、今まさにその記事を書いている自分の悠長さにいささか呆れてしまう。

 

冬至を過ぎ、ここからはそれこそ日増しに日光を浴びる時間が長くなるとは言え、目の前の仕事の繁忙さを乗り切ることに忙殺されている今、のんびりとその恩恵に預かれる日は、もうしばらく先になるかもしれない。

 

そんな多忙の中にあっても気になるアーティストの作品展には時間が許す限り足を運ぶようにしている。

 

当然限られた時間のなかで複数の場所を周ることになるため、タイトなスケジュールになるのは如何ともしがたいが、それでも、今その場で自分の目で観て体感しておかなければ次はないという思いに背中を押されるのである。

 

同じ作品であっても観る場所とタイミングが違えば、その印象と自分にとっての意味は大きく違ったものになる。

 

今回幾つか観た作品展で共通して心に残ったものは、おそらく「色彩」であった。

 

水彩画、マンダラアート、日本画など、分野は違えどその色彩の表出にそれぞれの個性と情感があり、そこには像を超えた人間性すら現れているような気がした。

 

色彩の重なりとグラデーションは緻密になるほど透明感を増し、その世界観はより明瞭となる。

 

京都市美術館「生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲」で観た若冲作品の濃墨の大胆さと存在感が強く印象に残っている。

 

若冲の色彩感覚の素晴らしさは墨の色にこそ凝縮されていると思っているが、淡墨の中に大胆にバランスされた濃墨は、その意味性も含めて絵全体の印象を強く牽引するものであった。

 

拓版画のコーナー解説の中の一文に「墨に五彩ありとは言い古された言葉だが…」とある通り、言い古された言葉の中にひとつの真実があることは疑いようがない。

 

多忙な日々の中でも、長くなって行く日の光を感じられるのと同じように、其処ここにある色彩の妙を感じられる心の余裕は持っていたい。

 

気に留めないだけで、見上げればそれはそこにも広がっているはずである。

 

 

確かにそこにあるもの

f:id:kenji-hazama:20161123174914j:plain先日、所用で2日ほど実家に帰省して来た。

 

箕面から岡山県北の実家までの道のりは、高速道路を使えば3時間ほどなのだが、ここ数年は一般道を通って帰ることにしている。

 

特別な理由がある訳では無いが、高速道路を淡々と走るのは何だか味気無いし、もともと長距離運転が嫌いでないこともあり、のんびりと景色を見ながらのドライブが却って良いリフレッシュになっている。

 

国道9号線を永遠と西へ向けて走り、兵庫の山を抜け、鳥取に入り、白兎海岸辺りの壮観な景色が見えて来ると、いつもどこかほっとした気持ちになる。

 

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そして海岸線を徐々に離れ、そこから岡山県の山間部へ向けて倉吉市の中心部を南下して行く訳だが、こちらは今回、いつもの景色とは違っていた。

 

多くの家屋の屋根に被せられたブルーシート、道路や橋に見られる大きな段差、街中の至る所に先日の鳥取県中部地震の爪痕が生々しく残っている。

 

ニュースなどで見聞きはしていたが、実際にその光景を目の当たりにすると何とも言えない気持ちになった。

 

比較的震源に近かった我が家も震度5強の強い揺れに見舞われはしたが、幸い家屋に大きな被害はなく、家族に怪我人も出なかった。

 

それでも地震の直後にしばらく電話が繋がらなかった時は、心配で身のすくむ思いがしたものである。

 

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こういった不測の自然災害に遭遇すると、改めて人間の力の無力さというものを感じざるを得ない。

 

またそれと同時に、普段の生活の中で特段意識されていなかった「本当は一番最優先に大事にされるべきもの」に否応なく気付かされる瞬間でもある。

 

それは、日常の雑多な思考に埋もれて見えていなかった家族に対する思いであったり、あるいは望郷の念のようなものだろうか。

 

奇妙なようだが、それはある種、自分自身にとっても「驚きのある発見」であり、心が震えたことでそれまで意識しなかった感情が溢れて来たとも言える。

 

「見えていないけども、確かにそこにあるもの。」

 

見ようとしさえすれば、それはいつでも見えるはずなのに、見ようとしないがために、見えないままでいる。

  

見えているものだけが全てではないと思えるなら、真に大切なことを見誤らず、前に進むことができるかもしれない。

 

実家に到着し両親の顔を見た時は、やはりほっとしたものだ。

 

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帰省中、実家から歩いて10分ほどのところにある氏神様へお参りに行った。

 

境内に一歩足を踏み入れた瞬間、思わずはっとした。

 

誰もいないその境内を、まだ誰も歩いていない雪面のように銀杏の葉が一面を埋め尽くしていた。

 

山の麓であり、神職も常駐していない静かな神社である。

 

おそらく数日ほど誰も足を踏み入れなかったに違いない。

 

 誰も見ていないけれども、確かにそこに「美」はあった。

 

 

 

 

水と墨と

f:id:kenji-hazama:20161031222428j:plainいつから自然水に関心を持ち出したのか記憶が定かではないが、たまに一人でぶらりと旅行に行くときなど、その近辺に「良さげな」水場はないか何気に探してみたりするようになった。

 

我が郷里は清廉な水がどこからでも湧いてくるような土地であったが、そのことをそれほど気に留めたこともなく、つい最近まで過ごして来た。

 

にも関わらずそうなったのは、もしかしたら、近年起こった様々な災害などの出来事、そのニュースに接することで自身の記憶が揺さぶられ、水の重要性やその有り難さを無意識的に感じるようになったのかもしれない。

 

この写真は今から4年ほど前、2012年の10月下旬に、一人で和歌山県の熊野から串本辺りを旅行した際に見つけた水場である。

 

串本の旅館の女将さんのブログに小さく載っていた写真と、古座川町のある集落の辺りだということくらいしか情報はなく、見つけるのはほとんど不可能に近いかと思われた。

 

紀伊半島のほぼ中央、山の谷間の小さなその集落を車で1時間ほど探したが見つからず、諦めて帰ろうかと思っていたところ、その集落に1件だけある簡易郵便局の前で談笑している壮年の男性2人を発見。

 

ダメ元でブログの写真をお見せすると、

「あーこれかいな、アンタこんなん探しに来たん?」

「さっきから何回も同じ車が通るなーて話してたんや」

「そしたらワシが軽トラで先導してあげるからついておいで」

 

そのまさかの展開に驚きつつも、男性のご厚意に甘えて車で20分ほど先導していただき、どうにか写真の水場へと辿り着くことができた。

(教えてもらわなければ絶対にわからない山の中である。)

 

なかなか趣のある水汲み場だが、聞くところによると、近所の方が趣味で作ったものだと言う。

(近所といっても完全に山の中で近くに家は無い。)

 

「こういうのを作るのが好きな男がおるんよ」

「そしたらワシ行くから、帰り道気をつけてね」

 

軽トラで帰って行く男性を見送り、しばらくその場の清廉な空気に浸る。

 

手酌でいただいた水はとても柔らかで、すっと体に染み渡っていくのがわかった。

 

このほとんど誰も来ないであろう山中で、日夜滔々とこの清廉な水が流れ続けていると思うと、何か感動的な気持ちすらしたのを覚えている。

 

墨で紙に何かしらを現すということにおいて、水は無くてはならないものである。であるなら、水の質というものがその「象」の現れ方に影響を及ぼすというのは、ごく当たり前のことのように思える。

 

しかしまだ、私はそのことに無意識的過ぎるかもしれない。