確かにそこにあるもの

f:id:kenji-hazama:20161123174914j:plain先日、所用で2日ほど実家に帰省して来た。

 

箕面から岡山県北の実家までの道のりは、高速道路を使えば3時間ほどなのだが、ここ数年は一般道を通って帰ることにしている。

 

特別な理由がある訳では無いが、高速道路を淡々と走るのは何だか味気無いし、もともと長距離運転が嫌いでないこともあり、のんびりと景色を見ながらのドライブが却って良いリフレッシュになっている。

 

国道9号線を永遠と西へ向けて走り、兵庫の山を抜け、鳥取に入り、白兎海岸辺りの壮観な景色が見えて来ると、いつもどこかほっとした気持ちになる。

 

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そして海岸線を徐々に離れ、そこから岡山県の山間部へ向けて倉吉市の中心部を南下して行く訳だが、こちらは今回、いつもの景色とは違っていた。

 

多くの家屋の屋根に被せられたブルーシート、道路や橋に見られる大きな段差、街中の至る所に先日の鳥取県中部地震の爪痕が生々しく残っている。

 

ニュースなどで見聞きはしていたが、実際にその光景を目の当たりにすると何とも言えない気持ちになった。

 

比較的震源に近かった我が家も震度5強の強い揺れに見舞われはしたが、幸い家屋に大きな被害はなく、家族に怪我人も出なかった。

 

それでも地震の直後にしばらく電話が繋がらなかった時は、心配で身のすくむ思いがしたものである。

 

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こういった不測の自然災害に遭遇すると、改めて人間の力の無力さというものを感じざるを得ない。

 

またそれと同時に、普段の生活の中で特段意識されていなかった「本当は一番最優先に大事にされるべきもの」に否応なく気付かされる瞬間でもある。

 

それは、日常の雑多な思考に埋もれて見えていなかった家族に対する思いであったり、あるいは望郷の念のようなものだろうか。

 

奇妙なようだが、それはある種、自分自身にとっても「驚きのある発見」であり、心が震えたことでそれまで意識しなかった感情が溢れて来たとも言える。

 

「見えていないけども、確かにそこにあるもの。」

 

見ようとしさえすれば、それはいつでも見えるはずなのに、見ようとしないがために、見えないままでいる。

  

見えているものだけが全てではないと思えるなら、真に大切なことを見誤らず、前に進むことができるかもしれない。

 

実家に到着し両親の顔を見た時は、やはりほっとしたものだ。

 

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帰省中、実家から歩いて10分ほどのところにある氏神様へお参りに行った。

 

境内に一歩足を踏み入れた瞬間、思わずはっとした。

 

誰もいないその境内を、まだ誰も歩いていない雪面のように銀杏の葉が一面を埋め尽くしていた。

 

山の麓であり、神職も常駐していない静かな神社である。

 

おそらく数日ほど誰も足を踏み入れなかったに違いない。

 

 誰も見ていないけれども、確かにそこに「美」はあった。