「執念」と「夢中」

f:id:kenji-hazama:20180506215310j:plain

ゴールデンウィークも終わり、今週からまた通常の日々が始まります。

 

お正月からのことを思うと、改めて時間が経つのは早いものだなと感じずにはいられませんね。

 

さて、先月京都にて私の書の先生の個展が開催されました。

 

墨の抽象表現である「心書」を中心に、大判の大作から、軸の小筆作品などの多彩な作品が展示され、遠方からもたくさんの方々がお見えになられました。

 

文字をモチーフとしながら、その文字がもともと内包している魂のような気を作者の感性と掛け合わし墨色として表出した、そんな作品たち。

 

それは観る者の感性を刺激すると同時に、書かれた意味を頭で理解するのではなく、そこに含まれた「念」のようなものを心で感じ取ることを求める。

 

そして、その感じ方が人によって様々であり、同じ作品を観ても全く違った心象を各々が持つ。

 

ここに抽象表現の意味と素晴らしさがあるのですよね。

 

今回は私にとっても、これまで作品集で目にしたことはあっても実物を目の前で観るのは初めてという作品も多く、実際の墨の濃淡から多種多様なイメージを感じ取れたことはとても有意義な時間となりました。

_________________________________

時を同じくして大阪梅田の阪急百貨店では、美術家・篠田桃紅さんの出版記念写真展&新作発表展が開催されており、こちらにも足を運びました。

 

篠田桃紅さんの作品に直に接するのは、2013年に岐阜県関市の篠田桃紅美術空間を訪れた時以来。

 

当時は生誕100年ということで、様々な場所で記念の展覧会が開催されていましたが、それから5年が経ち、現在は105歳になられています。

 

このお歳になられても作品を創り続けられておられることにはただただ驚嘆するばかりですが、なによりも近年に制作された作品のどれからも緊張感と強い念のようなものが感じられたことに驚きました。

 

それはつまり、失礼な言い方かもしれませんが、あのお歳になられても心が動いており、感性が敏感であることの証拠だと思うのです。

 

そのことが表現を多彩にし、作者本人の心象が投影された作品に力を与えることに繋がっているのではないかと感じました。

 

良い音楽を聴く、映画、お芝居などの素晴らしい作品を観る、美味しいものを食べる、素晴らしい工芸品に直に触れる、ダンスなど身体を動かす、自然の中に身を置く、そういったことで心を動かし、感性を刺激する。

 

素晴らしい作品を創り続ける人というのは、そういうことを意識的に大切にしているのですよね。

_________________________________

ちなみに、冒頭の写真は私の実家の隣の敷地の写真。

 

といってもこれは数年前の写真で、現在は花の面積が以前よりも小さくなり、ところどころに立っていた梅の木も、何本かは切り倒されたとのことですが、それでも今年も綺麗に花を咲かせているようです。

 

綺麗に咲き誇った芝桜を見て、通りがかりの人々も車を停めて楽しみ、写真におさめたりしているとのこと。

 

そして、毎年花のお世話をしているのは、この土地を所有しておられる同じ地域に住むとあるおばあさんなのですが、そのあばあさんはなんと御年102歳。

 

このお歳で一人で家から歩いて来られ、ひとしきり世話をしてからまた一人で歩いて帰って行かれるのです。

 

いつまで続けられるのかは分かりませんが、それでも毎年こうしてお世話をされているというのは、年齢を考えると驚きですよね。

 

以前父に「そうまでして世話をするというのは一体何だろうか」、「綺麗な花を見てもらいたいという思いだろうか」と聞いたことがあります。

 

父は「執念だ」と言いました。

 

本気とも冗談とも取れない回答でしたが、確かに何かの強い念のようなものをご本人がお持ちなのではないかということは想像できました。

 

私は直接お会いした記憶はないのですが、このお歳でもお元気で、はつらつとした方でいらっしゃるというこのおばあさん。

 

「執念」と「夢中」は紙一重

 

ものを生み出す人間というのは、その狭間で心を動かし、感性を研ぎ澄まし、いくつになってもそうあり続けている。

 

そこに年齢というものはあまり関係ないのかもしれませんね。

 

自分がそれくらいの年齢になった時のことなどまだ想像できませんが、自分もそうあれれば素敵だなと、ぼんやりと想像するのです。